
ストーリー
NPO留学協会認定 海外留学スペシャリストアドバイザー
(登録番号: 162003) 蛯沢睦美
<私が留学を決意するまで>
私は幼少期から高校まで岩手県花巻市(旧石鳥谷町)で育ちました。
花巻市(旧石鳥谷町)は、古くから全国各地の日本酒の蔵へ酒造りの職人(杜氏)を輩出している“南部杜氏のふるさと”として知られていますが、当時(花巻市と合併前)は人口16,000人余りの小さな町でした。
中学3年の夏休みに私の町(旧石鳥谷町)とアメリカ・バーモント州のラットランドという小さな町との間で姉妹都市交流プログラムの一環として、2週間のホームステイを経験しました。それが私の初めての海外経験で、また私の人生のターニングポイントでもあります。
もともと私は英語が好きでしたが、そのきっかけは私が幼い時から父親がよく外国人の方を家に招いたり、
私も彼らの家に遊びに連れて行ってもらった為、次第に英語について興味を持ち始めました。
中学2年のとき、岩手県が主催の留学プログラムでアメリカに行ける機会があることを知り、私はすぐさま応募しました。そのプログラムを私の2歳年上の姉も経験していたからです。
しかし、町(旧石鳥谷町)の代表として行けるのはたった2人だけで、応募者は3人。
選考方法はくじ引きでした。
応募者3人で選考会へ行き、私が一番最初にくじをひくことになりました。
くじをひくと、なんと結果はハズレでした。選考会はその時点であっけなく終わってしまったのです。
私は、はずれを引いた瞬間、涙がこぼれそうになったので、泣くのをぐっとこらえることに
必死でした。その日、家に帰ってからはたくさん泣いた記憶があります。
あの悔しい気持ちは今でも忘れられません。
それから1年後、中学3年のときに町の姉妹都市交流プログラムの交換留学生に応募し、私が以前くじびきでハズレを引いたこともあり、先生方が配慮してくださって私は5人の交換留学生の1人として、念願のアメリカ・バーモント州ラットランドへ行けることになったのです。
私のホストファミリーはとても優しく、温かく私を迎え入れてくれたおかげでとても充実した2週間を過ごすことができました。しかしその反面、現地での滞在中は英語でうまくコミュニケーションが取れずに悔しい思いをしました。
「また絶対、必ずアメリカに戻ってきたい。その時にはホストファミリーやアメリカの友人達としっかり英語でコミュニケーションを取れるようになりたい」という強い想いから、留学を決意しました。
帰国後も手紙でホストファミリーをはじめ、他の交換留学生ともやりとりを続けていました。
高校は岩手県盛岡市にあり、英語教育に力を入れている盛岡白百合学園高校へ入学しました。
入学後も英語は好きで、またホストファミリーや友人達に会って、自分の成長した姿を見せたいという目標もあったため、必死に勉強を頑張ることができました。そして父親からの勧めもあり、本格的に「アメリカ留学」という道を考え始めました。
高校3年の春頃に、同じクラスの友人がニューヨーク州立大学FMCC校(2年制大学:コミカレ)に入学が決まったと聞いたのです。その学校を調べてみると他の大学に比べ、学費なども安かったため、私の両親に相談したところ背中を押してくれました。進路が決まったのは高校3年の6月、それから渡米の準備が始まったのです。
しかし、あの2001年9月11日、私が留学を予定していたニューヨーク・マンハッタンで
「アメリカ同時多発テロ」が起こったのです。
進学予定先のFMCC校は、ニューヨーク・マンハッタンから車で約3時間ほどの郊外にあるため、直接的な被害や影響はありませんでしたが、私の両親や家族、周囲の方々からは
「いまこのタイミングで行かなくてもいいじゃないか」とアメリカ留学に対して大反対だったのです。
しかし、私の留学に対する決意は固く、「いま行かないでいつ行くのか」という意思を貫き通して、予定通り渡米しました。
<アメリカの2年制大学へ進学後について>
FMCC校には2002年5月に入学し、入学後はESLという留学生の為の英語のクラスを受講しました。
この学校はニューヨーク州の郊外にあり、治安もよく緑に囲まれたのどかな環境でしたが、私にとっては何もかもが新しく、毎日が刺激的でした。ただ、FMCC校に入学した日本人留学生がその当時、かなり多かったのです。100人は在籍していたと思います。そんな中、だんだんと日本人留学生が少ない環境で頑張ってみたいと思うようになり、自分で他の大学をリサーチし、すべて自分で手続きをして同じニューヨーク州立大学のHerkimer County Community Collegeへ2002年9月に入学をしました。
子供に英語を教える夢を持っていたので、Herkimer County Community Collegeでは幼児教育を専攻し、現地での保育園実習などを経験してきましたが、現地の子供たちとはバックグラウンドが違うので、どの絵本が人気なのか、そして子供が喜ぶ歌など全く知らなかったので、教育実習はかなり苦労しました。ですが、先生や同じ専攻の学生たちにも恵まれ、サポートしてもらいながら無事に2年で卒業しました。
4年制大学へ編入しようと考えていましたが、姉・弟もいたこともあり経済的に難しいため日本に帰国し、地元で就職しました。
3年間でまた少しずつお金も貯めて、今度は、J-SHINE(小学校英語指導者資格)を取得するため、カナダ・バンク―バーへ渡りました。カナダから帰国後は、資格等も生かして仙台や東京などでも社会人経験を積んできました。
そして、バーモント州・ラットランドのホストファミリーとのやりとりはずっと続けており、まさか、お互いの結婚式にも参列するなんて想像もしていませんでした。
<私が留学エージェントを立ち上げた理由>
私が高校時代、アメリカ留学をしようと思ったときにまわりには留学を経験した人もほとんどおらず、また情報も少ないため、仙台のような大都市へ自分で足を運び、留学説明会や個別相談会などへ参加して情報を得ていました。
その時の経験をもとに、地方でも留学に関する情報がもっと身近にあれば良かったと思い、帰国後も社会人生活を送る中で、ずっと私の留学経験を活かし何かできないかと、模索し続けていました。
その後、青森県出身の主人と結婚し、もともと起業志向の強かった主人が私の想いに賛同してくれたことにより、主人の地元でもある人口20,000人弱の小さな町(青森県東北町)で、2014年8月に青森県で唯一の留学エージェント「TBT」を立ち上げました。
<社名に込めた想い>
私のふるさとでもある岩手県と同じように、青森県のような地方でも留学したいと考えている方々へ、自分たちの経験も踏まえ、留学に関する適正な情報を発信し、これから世界へ羽ばたく皆さまをサポートしていきたいと思っております。
弊社の社名は、創業の地である「青森」という漢字を構成している「青」と「森」、つまり“3本の青い木々”から「Three Blue Trees」という社名にいたしました。
現在は、青森県のみならず日本全国のお客様の留学サポートを行っております。





そして今・・・
<新たな挑戦>
今現在、留学アドバイザーとしてだけではなく、自分の教室で子供から大人まで英語を教えており今の状況に満足していましたが、自分の生徒さんたちに英語を教えたり、留学サポートをしている中で、新たにやりたいことが見つかりました。
『4年制大学に行きたい』と思い始めたのです。
でも現地に行かないといけないし、子供もいるし、しかもこの年齢でまた学生は無理だしなぁ…と思いながらも、私の中でずっと引っ掛かっていました。モヤモヤしながら2020年に入りコロナが流行し、どこにも行けなくなってしまいました。
その中で多くの留学生たちが『オンライン留学』を経験しました。私のお客様も渡航できず、自宅でニューヨーク州立大学の授業を受けていました。それを見て、
『コロナ禍だからこそ今!オンラインで大学に行けばいいんだ!』
と思い始めたのです。オンライン留学は私の今の状況にぴったりでした。仕事と子育てをしながら、少しずつ単位を取っていこうと決断。『何年かかるかわからないけど、まずはやってみよう!』と。
2021年10月からスタートし、コツコツ単位を取って、あと2科目で卒業!終わりが見えてきました。
仕事、子育て、学業の両立は想像以上に大変なものですが、家族の協力を得ながらなんとか成績優秀者リストにも毎学期名前が載るようになりました(DEAN'S LIST)


私のこの挑戦は、留学サポートをする中で、シニアのお客様との出会いがあったからこそ決断できたことです。
人との出会いは、今後の人生に大きく影響するものだと思っています。
皆さまの留学がより良いものとなるようお客様と真摯に向き合いサポートいたします。